秘密 1


「待って!」
 引き留めた腕は重さを増し、私はよろけそうになる。
 頰を切るような風がごうっと巻き上がり、私たちはプラットホームに投げ出された。
 驚いたように、凛々しい目がこちらを睨んでいる。心臓が急速に早鐘を打ちだしたので、私はほとんど悲鳴のように叫んだ。
「あんた今、死のうとしたでしょ!」
 ポニーテールの同級生は、突然に右腕を振り上げた。「痛い!」
「周り見なさいよ馬鹿!」
 同じくらい煩い声にはっと冷静になると、隣の高校の制服を着た人やスーパーの袋を提げたおばさんたち。電車に乗ろうとした人の波は、総じて私たち二人に釘付けになっていた。
 ちょっと恥ずかしくなって彼女を振り返ると、もう一度さっきの勢いでぶたれた。
「痛いって!」
 赤くなっているであろう頰を押さえさすっていると、彼女のそこには透明な涙が流れた。
「えっ、何で? 何で?」
 痛いのは私じゃん! って言葉を堪えたのは、さっきの光景を思い出したから。オロオロと私たちを見ていた車掌は、この時点で安心したのか運転席へ帰ってしまった。彼女を置いてきぼりにして、発車のベルが鳴り響く。どっかのバンドの、オルゴールアレンジ曲。
 同時にわらわらと人が散り始めると、混乱していた頭がちょっと落ち着いた。この子、印象は薄いけど確か同じクラスにいたはずだ。
「えっと……岡本さん? だっけ?」
 声も出さずに泣きじゃくっているのが不憫になってきてハンカチを差し出すと、質問には答えずに受け取ってくれた。顔を覆っている腕のスキマから名札を覗くと、やっぱり「岡本」と印字されている。
 なるべくそうと悟らせない、嚙み殺すような泣き方。多分こうやって泣くのに慣れているんだろうと思った。
 迷った私は、とりあえず彼女を立たせてホームの隅に移動することにした。放っておけばいつまた線路に飛び込もうとするか知れない。
「ねえ、どうしたの。危ないでしょ、それに痛いのに。……そんなこと、したら」
 私まで泣いてしまいそう。私たちが呑気に笑って暮らしている間、クラスメイトが死ぬほどまでに追い詰められていたなんて。いや、まだ分からないけど、多分そうだ。魂が抜けたみたいに、ふらり、と白線を越えた彼女は、既にこの世のものではないような暗い目をしていた。
 鞄にぶら下がっていたかわいいクマのキーホルダーが揺れていたのだけを覚えている。考えるより先に手が出るってこういうことか、と妙に納得した気分だった。
「なんで、助けたりしたの!」
 大きく肩を震わせると、彼女は吐き出すように言った。
「なんでって」
 私はひとつまばたきをする。
「生きてて欲しいからに決まってるじゃない」
 それ以外ないでしょ、って付け足すと、彼女は泣き濡れた顔を上げた。「それはあんたが何も––––」
 唇が変な形で止まったかと思うと、彼女は素早く立ち上がった。
「来て」
 左腕を掴まれている。「へ? うわっ」躓きそうになりながら、ほとんど競歩みたいなスピードで人混みをかき分けて進む。ポニーテールに小さく揺れる、青い鈴の髪飾り。
 そういえば彼女の下の名前は、美鈴だった。

 

 美鈴は私をソファに座らせると、真っ先に冷房のスイッチを入れた。お世辞にも綺麗とは言えないような、ひどく古びたアパートだった。
「親は? いないの?」
「親父は競馬かパチ。母さんはいつも朝方まで仕事」
 何の感情もないみたいな言い方をする。お父さんは定時帰り、お母さんは専業主婦のうちとは違いすぎて、なんだかよく想像できない。寂しいんじゃないのかな、と思う。
「ご飯とか困るんじゃないの」
「冷食があるから」
「レーショク?」
「冷凍食品。」
 部屋に散乱したビールの缶や洗濯物を押し入れに突っ込みながら、美鈴は答える。「ごめん、無理に連れてきたのにこんな汚いところで」
 他人の家ってなんだか落ち着かない。辺りをキョロキョロ見回していると、ふすまに貼られたクレヨンの絵が目につく。じゃがいもに手足が生えたみたいな人間の絵。幼稚園の子がよく描く、頭足人、というやつだ。小さな美鈴が描いたものなのだろうか。
「はい」
 麦茶を差し出す彼女の左手首に、白い包帯が巻かれている。「あれ」思わず言って、水玉のコップを受け取る。氷がカランと情けない音を立てた。
「それ、どうしたの。怪我?」
 駅では日除けのアームカバーをしていたから気付かなかった。
 指摘すると、途端に美鈴は苦虫を噛み潰したような表情になる。それで、そういうものには縁がない私も察した。漫画なんかでしか見たことないけど、切ってるんだ。多分。
 なんとなく二人とも黙ってしまって、何とも居心地の悪い空気が流れる。胸のどっかにつっかえができたみたいで重苦しい。
 色違いのガラスコップから麦茶を飲んだ美鈴が、先に口を開いた。
「気持ち悪いと思う?」
 それがあんまり静かで淡々とした口調だったから、私は慌てて首を振った。
「思わない。全然。」
「……まぁ、死のうとしたのもバレてるし、今更か」
 彼女は、はぁあ、と諦めたように大きく息をはいて、向かいのソファに背中を預けた。
「それだよ。何でそんなことしようとしたの? 私もうびっくりして––––岡本さんがそんなことするように見えなかったから」
 すると美鈴は、真ん中のテーブルに置いてあった一冊のノートを開けた。
「話すのは得意じゃない。これが全部だけど」
 その真っ新な初めのページには、シャーペンの弱々しい文字で「遺書」と書かれてあった。
「別に読めって言ってるんじゃないけどさ」
 思わず見入っていると彼女はスッとそれを引っ込めてしまったので、惜しくなって「あっ」と声が出る。
「違うの、なんか……圧倒、っていうのかな、されて。私、あー死にたいーって思うことはあっても、本当に実行する気なんて少しもなかったから」
「みんなそんなもんだよ」
 呆れられちゃったかな、と少し怯える。
「新屋さん、私が死のうとするなんて思わなかった、って言ったでしょ。どうして? 私のことなんにも知らないのに、自殺なんてしないって信じてる方がおかしいんだよ」
 言葉に詰まった自分が情けなかった。そんなことないって言いたいのに、今の私は確実に彼女に反論できるだけの言葉を持っていない。
「でも……いや、うーん」
 喋りだしたはいいけど全然続かない。元々、理詰めで物事を考えるのは苦手なのだ。
「ごめん、分かんないや。でもとりあえず、岡本さんが今すぐ死ななきゃいけないってことはないんじゃないの」
「あるよ」
「どうして」
「私は疲れたの。今死にたいの。だから死ぬ。それだけだよ、ほんとに」
 そんなに自信を持って言われると怯んでしまう。クーラーは充分効いてきたはずなのに、背中をつうっと汗が伝って気持ち悪い。ここに居たらなんだか、私まで死にたくなっちゃいそうだ。
「とりあえずさぁ、なんか美味しいものでも食べて落ち着きなよ」
「あんた面倒臭くなってきてるでしょ」
「いや、普通にお腹減った」
 ぼすっ、と顔面に向けてクッションを投げつけられた。「いてっ」
「新屋さん、勉強できるからもっと頭良いのかと思ってたんだけど」
「ええ? 失礼でしょ」
 もしかして最後の晩餐は済ませた後だった? と訊こうとしてやめた。この時間だと最後に食べたのはつめたいお弁当だろうから。
「あークソ、馬鹿みたい。覚悟するのにも時間かかるのに、そんなふざけたことで踏み倒されたんじゃやってられない」
 酷い言いようだ。友達居なくなりそー、と思って、もう人生辞めるって決めたからここまで好き勝手言えるのかと気付いた。今の美鈴だけを見れば、元気そうなのに。プラットホームで見たあの暗い、死人のような顔を思い出してぞくっとした。
 私があの腕を掴まなければ、この子は今頃肉片と血飛沫だけになっていたのだろうか。
 線路に散らばるつめたい肢体。その中にこの青い鈴も混ざっていたのか、と思ってしまって気分が悪くなった。
「ねえ、死なないでよ」
 思ったより真面目な声が出て、美鈴はちょっと瞳を細くさせる。
「私、岡本さんが死んだら悲しい気がする」
「なにそれ」
「だってその髪飾り、綺麗だし」
 言ってしまってから、突然何を見当違いなこと、と思って恥ずかしくなる。
「はあ?」
「あ、いや、その青い鈴。名前と合ってていいよね」
「死ぬことと全然関係ないじゃん」
 でも、って言い出したところで上手く伝えられる気がしなくて黙っていると、美鈴は予想に反して「いいよ」と言った。
「なんかもう今日はそういう気にならないから。大丈夫」
 結構ちゃんとした調子で断言したので、ひとまずそれを信じることにする。この先べらべら喋っても何も変えられそうにないから、っていうのもあるけれど。
「その代わりさ」
 美鈴が、ぐいっとこちらに身体を乗り出した。
「新屋さんの秘密を教えて欲しい」
 真剣な目の彼女は、白くて綺麗な肌をしていた。
「どういうこと?」
「助けてもらった分際で悪いんだけど。新屋さんは、私の半分を知ってる。必死になって隠してきたものを、新屋さんだけが持ってるから」
 なんだか脅迫めいてきた。やっぱり異常だなぁと思うと同時に、彼女の気持ちが分かるような気もするのだ。
 美鈴にとって、どれだけかは知らないけれど長いこと連れ添ってきた「死にたさ」は、いつしか彼女の半身として巣食うようになってきたのだろう。
「––––だから、新屋さんの半分が、私も欲しい」

ブログ始めます(n回目)

エヴァンゲリヲンの予告編のタイトルがPeacefulTimeだったからこういう名前にしました。きっと見覚えがある人もいるはず。ようこそPeacefulTimeへ。Twitterでは書ききれないことを書いていきます。お楽しみに。読んでいる間の時間を借りている身なのでそれを返していければな。と思います。最初の方は借りっぱなしだと思いますけど。お手柔らかに。「こういうテーマで書いて欲しい」とかあったらなんでも言ってくださいなんでも書きます。f:id:f8c489cfd7urz3E05SE318:20160829000338j:image